■私の仕事歴   

私の仕事上での特徴は、主にメンズ関係ですが帽子から靴下まであらゆるアイテム、ジャンルを企画・デザインし商品化させた経験を持っていると言うことです。

重衣料はVAN時代にMr.Vanというヨーロッパ調のブランドの企画、デザイン業務の
アシスタントを行いながらスーツ、ジャケット、スラックス、ニットその他のアイテム全ての基本を勉強しました。
VANの企画部と言うところは様々なジャンルにおけるマニアの集まりでした、くろすとしゆきさんは落語の好きなTRADオタクで、あの語り口調であらゆるウンチクをしょっちゅう聞かされました、おかげで服に関するいろいろなことを知ることができました。

その後、スポーツ・トータルブランドであるVAN SPORTSにおいて「レターカーディガン」「エアフォースパーカ」等、カジュアルジャンルの当時の大ヒット商品を企画しました。Sの文字が胸に付いたカーディガンその他の商品はこれがはしりでその後他社も含め10年以上のロングランを示したと思います。<参考画像ページ
VAN SPORTSではライセンスブランドのSPALDING Brandのゴルフウエア、HAUSERのスキーウエアなども生産販売しておりそれらの商品も企画デザインしました。
学生時代アイスホッケーをやっていた関係から「アイスホッケー日本リーグ」の6チーム中5チームのユニフォームも制作しました、デザイン開発からリニューアルまで行い、大手のスポーツメーカーを出し抜いて日本代表チームのデザインまで獲得できました、一つには今では当たり前になったスーパーメッシュと言う素材を初めて使用したと言うことが当時のユニフォーム業界に対するアドバンテージでした。

VAN在社中のその後VAN MINI(子供服)や VAN BrandのCasual部門などの課長としてそれらの企画を行いました。
企画マン、デザイナーとして自分で手を動かさない、マネージメントが主体となる課長職はつらく10年を区切りにVAN jacketを退社しました。あらゆる面でVANは最高の学校でした。
(VANは私の退社2年後に会社更生法を申請し事実上の倒産)

その後、オンワード樫山の「リークーパー」と言うジーンズブランドの企画とデザインを行うことになりました。当時カジュアルに弱かった樫山はジーンズを切り口にカジュアル商圏への参入を計る戦略でした、しかしジーンズのような衣料は縫製工場の生産設備と経験でグレードが決まり、1型のロット数によりその商品性と利益が決まります、その両方を欠いたアパレル志向の会社ではファッション・ジーンズとして演出したジーンズが精一杯でした、その頃はデザイナージーンズのはしりの時期でしたので女性ものが主体で、表へ出ても女性のヒップにばかり目が行きました。
イギリスからのライセンスビジネスですので毎年春夏、秋冬二度づつ2〜3週間ヨーロッパへ出張しとても勉強になった時期です。5年間ほどお世話になりました。

丁度その頃、原宿の駅近くの煉瓦造りのマンションの一室を事務所として「岡本企画事務所」を開きました。その当時の原宿は今のように喧伝されていない時期で裏通りは住宅街、アパートばかりでした。表参道も今のようにブティークがあるわけではなく交差点にはまだセントラルアパートがあり、友達もたくさんいた原宿でした。その後18年ほどその原宿の事務所で仕事をしました。

ナイキが日本上陸したときに、日商岩井とゴールドウイン出身者でナイキジャパンが設立されました。
当時はまだアパレル部門が無くシューズのみの営業でスタートしましたが、まもなく日本とアメリカ同時にアパレル部門がスタートし、たまたま私のVAN SPORTSでの仕事が評価され、スポーツアパレルの企画デザインを請け負うことになりました。
初期のVカットのデザインは「ムーンランナー」と言う、夜ジョギングをしても危険がないようにV型の蛍光テープをツートーンのタフタスーツに付けたデザインでした、このデザインはアメリカのナイキアパレルでも取り上げ、そのテープを取りさったVカットの上下を低コストの台湾で大量に作りアメリカ国内で販売しました。瞬く間にストリートファッションとなりブレークダンスをする少年のユニフォーム的存在になり爆発的に売れました。
ナイキは学校から実業団まであらゆるスポーツ競技のユニフォームを受注しますので、デザイン数は数え切れないくらい描きましました。
既に契約を終えた数年後のことですが、あっと驚いたのがタイガーウッズがナイキと契約し彼のゴルフウエアを見たときでした、それは私が過去にユニフォーム用としてデザインしたソースそのままのものが多数ありました、もちろんナイキにデザイン使用権があることは当たり前でどの様に使っても良いわけです。とても嬉しいことでした「シンプル&ダイナミック」のコンセプトでデザインしましたから国内では不評のデザインも沢山ありましたがアメリカはそこを認めてくれたと感じました。
ですからウッズの初期のウエアは色を間違うと単純な体操着のようなデザインが多いと思います。

浜野商品研究所は浜野安弘さんのマーケティング会社で、そのコンセプトに沿って私たちのような専門スタッフがそれぞれの分野を請け負っていました。
私が初めて浜野さんから依頼を受けた仕事はマルマンゴルフのゴルフウエアでした、やっている内にだんだんマルマン営業サイドの意見が強くなってその結果、趣味の悪いデザインを要求されることが多くなりメーンの売場とかデパートには納品できないゴルフショップローカルという感じの商品に終わった感じがします。
それと並行してASICSから浜野商品研究所へアウトドアー・ヘビーデューティのブランド構築依頼があり、その時生まれたのが「タラス・ブールバ」です。開発時のデザインを担当しVAN SPORTS時代の経験を活かし、かなりイメージの良い商品に仕上げました。
商品企画・デザインで大事な仕事は出したデザインに対して出来上がってくる試作サンプルのチェックで、修正を加えいかに付加価値付けするかです。実際ニットなどは平画とサイズ数値での指示ですので工場が違うと全く別のものが出来上がってくると言うことがしょっちゅうあります、逆にそれに味があってオリジナリティを生むという場合もあります。タラス・ブールバのバス釣り用の帽子は私の画のツバが長めに描かれてあった上にそれ以上に長く作られてきました、それを見た浜野さんは面白いと言ってそのままでの生産を主張しそれが売れたのですからビックリしました、浜野さんの趣味は釣りですから何かピンときたものがあったのかもしれません。タラス・ブールバはその後ASICS本体に引き継がれ現在に至ります。

私がビッグジョンとつながりを持ったのは広告のアイデアの話から始まりました、ビッグジョンの広告制作をVAN時代宣伝部にいた後輩が電通傘下でプロダクションとして会社をやっていました、彼から広告のアイデアを求められ「ジーンズの解剖図」と「ジーンズはキーリング」と言う話をして、二つの話はそのままメンズクラブの裏表紙を飾り、その縁で仕事をさせて頂きました。今のようにインターネットはありませんからメール添付での指示なども出来ず、岡山まで片道5時間の出張を何度も繰り返しました。

アルファキュービックの柴田社長はVAN時代の同期生で私のデザインしたSPALDINGゴルフウエアの経験を買ってくれて、彼に自社の「レノマ」ブランドのゴルフウエアを企画することを依頼されました。
当時のゴルフウエアは品の良くない感じの商品(ダンヒルとかアラミス)がばっこし”医者、ヤクザファッション”と揶揄されていた時代でした、そこにもっともオーソドックスで世界的に通用するラインと言うことをコンセプトに新しいイメージのゴルフウエアを開発しました、今までになかったラインと言うこともあり評判をとりました。
アルファキュービックは婦人物の会社で生産工場の質が違いなかなか思うようなクオリティが出せず苦労しました、メンズの工場とレディスの工場ではこんなに違うものかと言うことも経験しました。

その後「レノマ」の雰囲気を見たカネボーから「ディオールスポーツ」のメンズバージョンの企画立ち上げを依頼されました。この二つのゴルフブランドは当時のゴルフウエアのイメージを一新し西武デパートに両方のコーナーが通路を挟んで設置されると言うようなこともおこりました、各デパートも追随し品の良い高級ゴルフウエアとしてこのジャンルが世の中に認識されました。

ヨネックスはあれだけのブランド力を持ちながらバトミントンイメージが強すぎて学販ルートから抜け出せず、テニスウエアはほとんどメーンの市場に出せないでいました。依頼を受けたときに考えたことは、世界的有名選手も着るわけですから”オリジナリティーを前面に”と言うことです、他社の売れ筋デザインは無視して白地に黒の帯(柔道の帯や相撲の回しをイメージ)を初期のデザインコンセプトに据えました。ポロシャツからウインドブレーカーまで全部同じデザインソースで一見してYONEXとわかるまでに徹底しました。戦略は当たり大手スポーツ専門店、テニスショップのほとんどにオリジナリティある商品として受け入れられました。
その後いわゆる「ブラッシュ」という東洋の毛筆タッチのモチーフをカラフルに色づけしたデザインを発表し伊達公子などが大きな大会で着用しました、このデザインは中国のバトミントン・ナショナルチームからユニフォームとしてのオファーが入り、その後中国はあらゆるナショナルデレゲーションのユニフォームのモチーフとして使用しました、私には「真似をされると言うことは名誉なことだ」と言う考えがありますので、ヨネックスの人達はあれこれ悔しがっていましたが私は嬉しいくらいでした。YONEXはワールドブランドと言う側面があったのでそのデザインソースにには常に日本的なものをおいて、それを下敷きにしてデザインしたのです。
その「毛筆」のモチーフは先日の2002FIFAワールドカップの公式ポスターでもモチーフとして採用されています、西欧に対して東洋のオリジナリティを示せる絶好のモチーフだと思います。
テニスウエアと言うのは大体白無地にデザインを施すわけですからキャンバスに画を描くようなもので、オリジナリティと言うことでは産みの苦しみを味わいますがデザイナーとしてはとても楽しい仕事でした。

90年代に入って世の中が不景気になり、衣料品はことごとく売れない時代になって、新たに企画したりブランドを構築すると言う事が少ない時代になりました。
石津事務所のお計らいでシーン社のケンコレクションブランドのゴルフウエア「グリーンスポット」の企画・デザインをやらせていただきました。石津謙介のブランドですからトラディショナルモチーフをアメリカンゴルフのシルエットにのせ変え「アルペン」で展開しました。プライスの制限で思うような素材は使えませんでしたので団塊の世代好みのデザインを特徴にしました、実際いつまでも着られる良いデザインも1年間でへたる様な生地で作っていましたので今考えてももったいない感じが残ります。その後ナショナルブランドもアルペンへの納品が始まり、それらのブランドに押され棚を譲り自然消滅となりました。

その頃、石津事務所とジャスコ、大沢商会の共同企画で「ケンズアイ」というブランドが発表されました。ゴルフウエアの関係で出入りしていたこともありファッションコーディネーターとしてお手伝いすることになりました。久々の重衣料も含むGMSの大型ブランドですが各アイテムで専業の会社がライセンス生産をしますのでどうしても雰囲気に整合性が取れずこの仕事のスタイルに悩みました、何年かの内に各社の商品もトラディショナルと言うコンセプトを中心にまとまりが出てきました、最初はこの素材とこの縫製でこの値段!と言うような驚きがありました、しかし肝心のスタイルとイメージを表現するパターンが先方メーカーの既存パターンを使っていますので通り一遍で味のある服になれないのです、この業界で生きているメーカーはコスト意識が強いあまり開発費と言う概念は最初からなく、真似をする対象を提示してくれというつらい話ばかりでした。
「世界へ着ていっても恥ずかしくない服を手の届く値段で提供する」と言う日本の文化度アップに貢献できるという仕事でしたので、変な使命感を持ってしまい様々なところで憎まれ口を叩いてしまいました。

1990年頃からだったと思いますが、デザインするのにコンピュータをつかいはじめました、テニスウエアのようなカラーバランスを必要とするデザインには大変効力を発揮して、カラー、デザイン決定をシュミレーション出来て、試行錯誤が少なくなりました。
10年以上前からMacintoshを使っていますのでほとんどのことはコンピュータで出来るようになりました、企画書からデザイン案、インターネットでの情報収集など幅広く有効に活用しています。
このOCOTOMO.COMと言うウェブサイトも全部自力で立ち上げました。

神戸の大震災が起こったときテレビを見ていて、都心で真下がガレージになっている原宿の事務所が怖くなりました、それだけではありませんがその年の3月に18年住み慣れた原宿の事務所を引き払い、郊外にある自宅の10畳ほどの部屋を改造して事務所にして「SOHOスタイル」で仕事を始めました、このころからインターネットが普及し始めてメールなどで書類やデザインが送れるようになり仕事でインターネット活用するようになりましたました。<事務所の写真

経験から言いますと、コンピュータで仕事は合理化されてアシスタントもいらずラクになりましたが、企画マンに大事なことは変化を感じ取る感覚と観察眼だと思います。
デザイナーとしての一番大切な仕事は画を描くことではなく、試作サンプルの修正・訂正を伴うチェックです。この時しっかり直すところを直して量産用の工業パターンとなるモデルに仕上げるというところだと思います。私はこの行程を服への「魂入れ」作業と考えています。

後何年かは、今までのこれらの経験を世の中に還元するつもりで、銭金づくだけではない仕事をしたいと思います。お役に立てることがあればいつでもocotomoへご相談下さい。

 
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